岐阜 関ヶ原 吉継と三成 その2
ナビを頼りに走りましたが、場所がわからず右往左往。
案内板があったので見てみると、ありました。
しかも、吉継の墓の場所を示している。
とりあえず、道の端に車を止めて歩きました。
顕彰碑
墓参を済ませ陣跡へ。
案内板を頼りに徒歩5分ほどで着きました。
陣所より松尾山を望む。
金吾の陣を前に、吉継は何を思ったでしょうか。
盟友であった平塚為広の碑。
昭和十五年、子孫が建立しました。
病の吉継に代わり、前線の指揮を任されたと言われています。
名の為に 捨つる命は惜しからじ 終に留まらぬ浮世と思えば 為広
契りあらば 六つの衢に待てしばし 後れ先立つことはありとも 吉継
当初、吉継は上杉征伐のため家康と行動を共にするはずでした。
ところが、三成から挙兵することを打ち明けられ、翻意をせまりますが
三成の決心は揺らぎません。盟友を見捨てることが出来ず、西軍方に付きます。
秀吉をして『吉継に百万の兵を与え指揮を執らせてみたい』と言わしめた吉継。
東軍に寝返った小早川隊を何度も押し戻します。
しかし、南宮山の毛利勢は動かず、吉継の麾下にあった、脇坂、朽木、赤座、小川隊も
寝返ってしまい万策尽きてしまいます。
自らの首を家臣の湯浅五助に託し自刃。
大谷刑部少輔吉継と石田治部少輔三成。城持ちの将となっても幼い頃から
仲が良く、互いをリスペクトした気持ちは変わらなかったのでしょう。
この日は彦根市にて宿泊。
翌日、彦根城へ。